コバヤシが２階でウロウロしていると、おっかさんの上がってくる音が聞こえました。大きな足音はしませんが、絹の着物の擦れる音がするのです。誰だか知らない若い女性の声も聞こえてきました。どうやらお弟子さんたちがやってきたようです。見つかると叱られるかもしれないと思ったコバヤシは、壁に立てかけてあった琴の蔭に隠れました。けれども、おっかさんに言われてお弟子さんが琴を畳の上に並べ始めたので、コバヤシは慌てて床の間に逃げ込みました。
床の間の中央には直径１５センチと９センチぐらいの二段重ねの鏡餅がありました。コバヤシはすぐさま臭いだけでそれが食べ物であることを察知しましたが、今は食い意地を張らせている場合ではありません。鏡餅を気にしながらも、コバヤシは床の間の前に置いてあった桐製の三味線箱の影に蔭に入りました。

やがておっかさんの邦楽の仲間が現れ始めました。
まずやってきたのは琴のお師匠さんです。
「あら、先生。新年おめでとうございます。旧年中は大変にお世話になりまして、本当にありがとうございました。本年もよろしくお願い申し上げます。あの、これ、京都から取り寄せた丹波の栗羊羹なんでございますけど、宮内庁御用達のお店のなんですのよ。お手合わせの後に皆さんに召し上がっていただこうと思いまして。オホホホホホホホ･･･」
そう言って、そのお師匠さんはおっかさんにいかにも高そうな羊羹の入った箱を手渡しました。すると、おっかさんは
「あら、そうですか。お気遣いいただきまして恐れ入ります。それでは後ほどお集まりの皆さんとご一緒にネ。オホホホホホホホ･･･」
と答えました。というわけで、おっかさんの「オホホホホホホホ･･･」は、長い邦楽生活の中で癖になってしまった笑い方だということがここで判明しました。
さて、次に現れたのは禿げた頭に老眼鏡、それに紋付きと袴を身につけた尺八のオッサンでした。
「いや、先生。本日はお招きいただきまして、誠にありがとうございます。私もそれなりに稽古はしてまいりましたが、どうかお手柔らかにお願いいたします。ムッフッフッフ･･･。あ、それから、いや、これは、ほんの手土産でございまして、どうぞお納めください。ムッフッフッフ･･･」
そう言って、オッサンは薦被りの日本酒を差し出しました。

まあ、こんな感じで、妙に折入った人々がどやどやとやってきて、いよいよ弾き初めが始まりました。ペンペンペン、サラサラサラリン、ヒョロヒョロ～。もちろんコバヤシには何のことだかさっぱりわかりません。でも、生まれて初めて聞く不思議な音に、コバヤシもしばし耳を傾け聞き入っていました。けれども、人間でも興味がなければ眠くなってしまうような江戸時代の音楽ばかりが鳴っていますから、コバヤシが眠くならないわけがありません。子守歌にするには少しばかり賑やかでしたが、それでも退屈中のコバヤシは三味線箱の蔭でいつとはなしに眠ってしまいました。

しばらくして、コバヤシが目を覚ますと、また誰かがやってきたようでした。
「あら、先生。まあまあ、こんな所までご足労くださいまして、誠にありがとうございます」
一体何を言っているのかコバヤシにはさっぱりわかりませんでしたが、それはおっかさんの声でした。
「さ、どうぞ、どうぞ」
おっかさんに誘導されながら、その人物は二階の稽古場に入ってきました。すると、居合わせた人たちが一斉に
「小林先生、おめでとうございます」
と、挨拶をしました。どうやらその人物は小林先生という人のようでした。その小林先生は、仙台にある大学の名誉教授で趣味の尺八の腕前はセミプロ級、前の年の春だか秋だかに本業の学問で何とかという勲章をもらったらしいのです。その時のお祝いのパーティーでおっかさんが外交辞令のつもりで「よろしかったら新年のお弾き初め会にどうぞお出でください」と言ったところ、奥さんにも先立たれて子供もいなかったものですから、暇つぶしに本当に現れてしまったのです。男ヤモメの小林先生の手土産は、仙台ならどこでも売っている笹蒲鉾でした。
本当に現れられて焦ったとはいえ、そこは社交辞令上手のおっかさんのこと、小林先生を上座、すなわちコバヤシが隠れる床の間を背に座らせたおっかさんは、
「それでは皆さん。お上手な小林先生もいらしたことですから、もう一曲お手合わせいたしましょう」
と言って、仲間を煽ってまた琴と三味線と尺八の合奏を始めました。
ペンペン、ヒョロヒョロ、ピ～ヒョ～。この頃になると、コバヤシの耳もだいぶ和楽器に馴れてきたせいか、「ウルセエナァ～」と感じるようになっていました。（ちなみに、コバヤシが認識している言語は基本的に仙台弁ですので、悪しからず！）

さて、うるさいと感じ始めたコバヤシが三味線箱の端っこからちょっと顔を逸らしてみると、そこには客人の持ってきた手土産の箱が山積みになっていました。当然、コバヤシの姿は土産物に隠れておっかさんからもお客さんからも全く見えません。おまけに床の間を背にした真ん中には小林先生が座っています。もはやコバヤシには人間から咎められるのではないかと心配する要素は全くと言っていいほどなくなっていました。
頃合いもほどよく、コバヤシは目が覚めた時から空いていたお腹を満たそうと、まずは鏡餅に噛みつきました。その餅は、前の年の暮れにおっかさんが親の代から注文し続けている餅屋さんに特別注文で作ってもらった餅でしたから、質のいいもち米１００パーセントでとてもおいしいのです。いつもおやじから固くなりかけたおにぎりをかじらされていたコバヤシは、同じような種類の味なのに、こんなにも違うのかと喜びながら餅をかじり続けました。
重ね餅の下のほうを２センチほどかじったところでちょっとお腹がいっぱいになったコバヤシは、何かおかずになるものはないかと、今度は集まった手土産の箱の臭いを嗅ぎ始めました。すると、１つだけ、箱ではなく包み紙に包んで紐をかけただけの物が山積みの土産の一番上にのっかっていました。それは、小林先生が持ってきた笹蒲鉾の包みでした。ぺちゃんこの顔におまけ程度にくっついているぺちゃんこの鼻をその包みに近づけたコバヤシは、蒲鉾に使われている鱈の強い臭いに思わずヨダレが出てしまいました。
「ウマソ～！」
鱈の臭いに我慢のできなくなってしまったコバヤシは、短い前足を一生懸命伸ばして蒲鉾の紙包みを自分の側に引きずり下ろすと、ビリビリと音を立てて蒲鉾の包みを壊し始めました。けれども、琴・三味線・尺八の音が結構大きいので、誰も紙の破れる音には気がつきません。それをいいことに、コバヤシは包みをすっかり破いてしまうと、中に入っていた蒲鉾の袋も食いちぎり始めました。それでも誰も気づきません。皆、自画自賛の邦楽の演奏に夢中になっています。一方コバヤシは、蒲鉾に鼻が直に触れたとたん、それはもう物凄い勢いで１枚ペロリとたいらげてしまいました。
「ウメエェ～！」
コバヤシはもう１枚蒲鉾を食べようと思いました。けれども、そこはソレ、犬知恵の悲しさ、いえ、人間でもそういうことはままありますが、先に食べた餅がお腹の中で膨らんでしまって、蒲鉾１枚食べたところでもう胃もたれが始まってしまったのです。
「ザンネン！デモ、マダアルカラ、キットダイジョブダベ。マタクエバイイノヤ！」
しかし、コバヤシの災難はそれだけでは終わりませんでした。不運なことに、突如食べた餅のせいで、昨日までに食べていた物が腸の中で押し出し運動を始めたのです。
クククク･･･キュ～～～･･･
コバヤシのお腹が小さな音を立て始めました。そして遂に我慢が限界を超えました。コバヤシは、鏡餅に並べるようにして、床の間にウンコをしてしまったのです。