五福星

第１８回

おっかさんが自分の臭いを気にしながら２階に上がると、座敷ではさっきまで立っていたはずの小林先生がしゃがみこんでいました。自分たちの話に熱中していた一同は、おっかさんが１階に降りたことには気づいていません。ただ廊下や階段の窓を開けただけだと思っているのです。
それをいいことに、おっかさんは知らばっくれて、
「あら、先生。どうなさったんですか。ご気分でも悪くされたんですか？」
と、小林先生に尋ねました。すると、小林先生本人でなく他の琴のお師匠さんが答えました。
「いえね。先生、ちょっと興奮なさりすぎたのかしら。気分が悪くなったっておっしゃって･･･。最近ちょっと血圧が高めなんですって」
「あら、あらあら、あら。それは大変なことで。本当に申し訳ございません。うちのバカ息子が犬に人間と同じ名前を付けたりするから、先生のお怒りを被ることになってしまって･･･」

おっかさんが一生懸命釈明していると、お師匠さんの一人が突如笑いだしました。
「オホホホホホホホ･･･。皆さん、床の間ご覧遊ばせ。お供え餅がかじってあって、おまけに小林先生がお持ちになった蒲鉾まで食い散らかしてありますわよ。だから、先生（おっかさんのこと）、ワンちゃんの名前お呼びになったのね。これでわかりましたワ。オホホホホホホホ･･･」
「あら、そうなの？」
他の人たちもそのお師匠さんに続いて床の間を覗き込みました。
「あらぁ、ホントだわね。でも、犬が犯人なら仕方ないわよ」
「ムム、確かに。相手がワンコではどうにもこうにも、致し方ありませんな。しかし、派手にやりましたなぁ～」
皆が口々にそう言うので、とうとう小林先生も床の間を覗き込みました。
「はあ～。なるほど、そういうことでしたか･･･」

おっかさんは三つ指ついて、顔を畳に擦りつけんばかりにして小林先生に謝りました。
「本当に、まさかうちの犬がいつの間にか忍び込んで、こんなことをしていたなんて、思いも寄らなかったものですから。本当に申し訳ございません」
すると、小林先生は少しは気分が落ち着いたのか、照れくさそうに言いました。
「いや。私もいい年をして、大人げないことを申し上げてしまいました。相手が犬ではどうしようもありませんな。しかし、それにしても、あの臭いは何だったんでしょうな？」
機嫌が直ったとはいえ、やはり、小林先生は臭いにこだわっています。どうやらここにいる一同はウンコのことまでは思いつかないでいる様子です。おっかさんは何とかウンコの話をせずに臭いの元について言い訳しなくてはと思いました。けれども、とっさには言い訳を思いつきません。困っていると、尺八のオッサンの一人が言いました。
「まあね、臭いの元というのは、誰にでも可能性があるわけですから、まあ、あんまり追求しないほうがよろしいんじゃないでしょうかね」
すると、小林先生がまた眉を吊り上げて声を荒らげました。
「何をおっしゃる？臭いの元と疑われた私としては、それに、私は科学者でもあるし、やはりはっきりしてもらわなくては困ります。私はあなたがた一般人とは違うのです。学者として、私は納得のいく結論が欲しいのですっ！」

「また始まったよぉ～」
と、お弟子さんたちは小声でブツブツ･･･。

と、その時でした。しっかりと閉まっていなかった部屋の出入り口のほうから妙な臭いが･･･。
「あら？何かしら？」
おっかさんはこの時とばかりに逃げ出すつもりで部屋の戸をガラリと開けました。すると、階段の下のほうからぷ～んと卵の腐ったような臭いが立ち上ってくるのです。
「あら！何したのかしら！」
おっかさんは、今度は逃げるつもりでなく、本当に下の様子が気になって階段を降りました。
臭いは、台所のあるほうからしてきます。
「あら、バカ息子、また変な料理でも作ってるのかしら？でも、今日はいないはずだし･･･」

おっかさんが台所に行ってみると、おとっつぁんがガスコンロの前で何やらやっていました。
「お父さん、何してるの？」
おっかさんが側に寄ってコンロの上を見ると、フライパンの中で、マヨネーズと卵がグチュグチュと煮立っています。
「お父さん、何やってるの？」
「あ゜～？シカクっつう料理を作ってんのや」
「シカク？」
「うちのバカ息子、あれで一応料理人だべ？野郎がウメエがら作ってみろってこの前言ってたんだ。だがら、やってみたんだげんと、これでいいのがなぁ？」
「シカク･･･。何、シカクって･･･」
「知らねえよ。腹減ったがらとにかく何か作ってみっぺ（作ってみよう）と思ってやってたのや」

『シカク』というのは、おやじが考案したのか盗作したのか知りませんが、子供の頃から気に入って作っている軽食のことなのです。溶き卵にマヨネーズとご飯を混ぜてフライパンで焼くという変な料理です。食べる時は唐辛子でもコショーでも山椒でも、好きなものをかけて食べていいとのこと。おやじの場合は、マヨネーズの他に醤油をたらして焼くこともありました。（注：シカクを漢字で表すと、死角か刺客か、はたまた四角か？資格や視覚でないことは確か）
ま、こんな変な料理のことは真に受けていただかないほうがよろしいかと思いますが、ともかくもおとっつぁんはバカ息子の真似をして失敗したようなのでした。しかし、このことはおっかさんにとって思わぬ助け船となりました。
「お父さん。後で、あたしがもっとおいしいもの作ってあげるからネ！」
そう言うと、おっかさんは変に軽やかな気分で２階に戻りました。

「お待たせしました。ご心配おかけして申し訳ございません。実はね、うちの主人が息子から習ったっていう変な卵料理を作っておりましてね。それで失敗して、何回もやり直してたらしいんですのよ。オホホホホホホホ･･･」
「ほう、変な卵料理。で、どこがどう変なのですか？」
科学者の小林先生は理屈の上で納得しない限り後へは引きません。仕方なく、おっかさんはシカクについて説明しました。
「ほう～。シカクという料理ですか。ふむふむ。それはひょっとして、独り暮らしのやもめには手軽でいいかもしれませんな。それでは、私も今度やってみましょう」

バカ息子の変なレシピのおかげで小林先生も納得。臭いの元の捏造には成功して、おっかさんはようやく気分が安らぎました。けれども、この時、おっかさんはコバヤシが来客の一人の草履の鼻緒を噛み放題噛んでいたことを知るよしもありませんでした。

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