姑とのギスギスした生活の始まったおやじでしたが、なにせタダで住まわせてもらっているので文句も言えません。せめて日用雑貨代ぐらいはお小遣いとしてあげておけばよかったのですが、そんな気の利いたことは一切するはずもありません。たまに店で作ったチャーシューやギョーザを持ち帰って姑に食べさせるか、姑が買い物で町に出たついでに五福星に立ち寄った時に他のお客よりも１枚だけ多くチャーシューをのせたラーメンを出す程度で、それ以上のことは何もしなかったのです。これはどう考えても甘えすぎ！なのに姑の家でのおやじの態度はデカイ、デカイ。休みの日はパンツ一丁で家の中をウロウロ、ゴロゴロ。高校時代に日本相撲協会からスカウトされかけた体格は、昔ながらの作りの日本家屋では邪魔以外の何者でもなかったのです。

姑の家は畳に座って食事をするのが基本で、今風のイスとテーブルの生活ではありません。座敷に古いソファがあることはあるのですが、いつも新聞やら洗濯物やらが乗っていて余分なスペースは全くありません。そうなると、姑の家でおやじが腰をかけていられる場所はトイレだけになってしまいます。で、そのトイレはというと、もともとは和式だったのですが、姑も年をとって腰が冷えるようになり、つい最近洋式にしてウォームレットを取り付けたばかりなのでした。ですから、便座は新しくてきれい。おまけに温かい。おやじは他人の家だということをすっかり忘れて、この快適な便座を自分のソファのようなつもりになってしまっていました。

ある朝のことでした。おやじはいつものようにタバコを持ってトイレに入りました。そして、トイレの中でタバコの煙を燻らせたおやじは、トイレ本来の用途に従うべく、タバコを便器の水に放り込んでからゆっくりと天井を見上げ、朝のお勤めを果たしました。
「はあ～っっっ！いがったあ～。今日も一日爽快に始まるなあ。それにしても、何で女の人は便秘なんてすんだがなぁ。そういえば、ここんちの婆さんもセンナ買ってたっけな」
こんなことをのほほ～ん考えながら、おやじはいつものようにトイレットペーパーのホルダーまで手を伸ばしました。すると、紙が手に触れることはなく、カタッという音がしました。
「あれや?」
おやじがホルダーを見ると、中にはトイレットペーパーの芯が残っているだけで、紙本体はありません。
「なにや、紙ねえのが･･･」
そこで、胴の長いおやじは便座に腰をかけたままで、手と背筋をぐう～んと伸ばして棚の上にあるトイレットペーパーを1つ取ろうとしました。しかし、運悪く、おやじが着ていたＴシャツの裾がウォームレットの端っこに引っかかってしまったのです。
「あっ！」とバランスを崩したおやじは、トイレットペーパー1個どころか、棚の上にあった買い置きの分のビニール袋まで引き裂いてしまいました。
ガタガタ、ゴロゴロ、トイレットペーパーが落ちてきて次から次へとおやじを直撃します。そして、おやじのぶよぶよした身体にぶつかっては弾んで床に転げ、ぶつかっては弾んで床に転げして、ついに床はトイレットペーパーでいっぱい、おやじは身動きができないほどになってしまいました。
「チクショーォ。今日は朝からついてねえ～～」
おやじはボヤキながら、まずは自分の始末をつけるべく、トイレットペーパーを１つ手に取りました。すると、手に取った瞬間におやじの目に飛び込んだのは、マジックで濃く太く強く書かれた姑の名前だったのです。そうです！姑はマナーの悪いおやじが毎朝トイレットペーパーを無駄に使うのに腹を立て、「買ったのはあたしだよ！」と言わんばかりに、その時トイレ内にあったすべてのトイレットペーパーに１個ずつ自分の名前を書いておいたのです。
おやじはアタマの中が真っ白になりました。マジックのインクが十分に染みていて、巻き取っても巻き取っても姑の名前が薄れることはないのです。いくらなんでも姑の名入れのトイレットペーパーはかなり使いにくい･･･。これはおやじに対する姑の心理作戦の勝ちを意味しているわけですが、当のおやじは用を足して拭いて出ようという矢先のあまりの出来事に、ただでさえ乏しい思考力が完全に働くなくなり、どうやってトイレから出たのか、後になっていくら思い出そうとしても思い出せないほどになってしまっていたのです。

こうして、全く記憶がないままにトイレから出たおやじは、中間の事情は不明ですが、とにもかくにも、きちんとズボンをはいていました。
その日はちょうど定休日だったので、かみさんはまだ寝ています。姑は朝早くからどこかへ出かけていて、家にはいません。
しばらくぼ～っとしていたおやじでしたが、ハッと我に返ると、慌ててトイレに戻り、落っことしたトイレットペーパーを懸命に拾って棚の上に積み上げました。これが並のトイレットペーパーだったら積み上げるのも楽でしたが、１個１個に天敵の名前が入っています。しかも直筆で。おやじは名入れのトイレットペーパーに触るたびに具合が悪くなる思いでしたが、そのままにしておいたら後がもっともっと大変になります。とにかく知らん顔をすることに決めたおやじは、慣れない手つきでせっせとトイレを掃除しました。そして、自分の痕跡を消したところで、自分の分のトイレットペーパーを買いに町に出たのです。

久しぶりに繁華街に出たおやじは、通りがかりのドラッグストアでトイレットペーパーを段ボールで１箱まとめ買いにして、「後で取りに来るから」と言って、商店街をぶらぶらし始めました。
タバコ屋さんでタバコを買って、自動販売機でジュースを買って飲みながら、おやじは久しぶりにウィンドウショッピングを楽しみました。いえ、本当は楽しくも何ともなかったのですが、そうでもしないと気持ちが落ち着かなかったのです。
おやじは何となく若い女の子の後について歩いていましたが（特に邪な気持ちがあったわけではありません。これは単に習性というか･･･、嗚呼！ロクデナシ～～♪）、しばらく歩いたところでどこからともなく犬の鳴き声が聞こえてくるのに気づきました。
「なにや、犬の声したみてえだな」
おやじが犬の気配のするほうを振り向くと、そこにはペットショップがありました。そして、その店では通りに面したところに可愛らしい小犬を何匹も入れた大きな檻を置いていました。
「へえ～」
もともと動物好きらしいおやじは、急にうれしくなってペットショップの中に入っていきました。
店の中には親と一緒に来た子供たちが何人かいて、「あれがいい」「こっちがかわいい」とはしゃいでいます。おやじが子供たちの見ている檻の中を覗くと、そこにはいわゆる美犬が何匹かいました。
「へっ、犬のくせしていい顔してやがんな」
おやじは犬の男前に嫉妬しながら、不細工な犬を探して店の中を歩き回りました。すると、一番奥の目立たない所に、顔の真ん中が真っ黒で、ヒッ潰れて皺が寄ったような犬相のパグが一匹、腹を出してひっくり返って寝ていました。
「なにや、おめえ、不細工だなや。それによぉ、一匹だけつま弾きにされててよぉ」
別にそのパグはつま弾きにされていたわけではありません。たまたまその場所に置かれていただけだったのですが、トイレットペーパーの件でイジケてしまっているおやじには、そのパグが除け者にされてイジケているように見えたのです。
「おめえもなあ、おれと一緒で、不細工だしなあ。モテねえよなあ。誰もおめえのごどメンコイ（かわいい）って言わねえべ～。なぁ～、顔が悪くたって心が悪いわけでねえのにな。ひでえもんだよな、世の中なんてな･･･」
おやじはこんなことをつぶやきながらパグを見ていました。すると、寝ていたパグもおやじに気づいたのか、むっくりと起き上がり、おやじの顔を見ながら大きなアクビをしました。
「おっ、おめえ。不細工だげんとも、いい面構えしてるんでねえの。よっしゃ。おれ、おめえが気に入ったがらよ、買ってやっぺ。いいべ？」
こうして、おやじはパグを一匹、衝動買いしてしまいました。

家に帰ると、かみさんは洗濯をしていました。姑はまだ戻ってきていません。おやじはかみさんにパグを見せました。すると、かみさんは、
「うわぁ～、カワイイ～！」
「へへっ、かわいいべ～」
「うん、カワイイ！」
実は、かみさんはパグ面が大好きで、それがもとでおやじと結婚してしまったのです。
「いいよ、いいよ。パグ大好き！あたしさ、シェルティーとか、ああいうとんがった顔とか、テレビのＣＭに出てるようなの、嫌いなんだよね。やっぱり丸顔でヒッ潰れてなきゃあ～。おまえいい顔してるなあ～」

『蓼食う虫も好きずき』なんて諺がありましたが、こういう物好きがいたおかげでおやじも結婚できたわけです。で、そこまではいいとして、問題はこれからです。おやじは「お金がない」と言って姑の家に転がり込んでおいて、それでいて数万円のパグを衝動買いしてしまったわけですから、姑が帰ってきたら、ただで済むわけがありません。
この先、おやじは一体どうなるのでしょうか。そして無分別に買われてしまったパグの運命や如何に？！